「恋ヶ窪」の由来・姿見の池 [散策]
国分寺市恋ヶ窪にある「姿見の池」は「東京の名湧水57選」の一つ。
何の下調べもせず地図だけ見て行きました。
写真は、撮影した順番通りに掲載します。
看板があったけど姿見の池は何処だ
左方向に行くと鳥居と祠がありました。下に紫陽花も咲いてました。
しばらく歩いて行くと遊歩道がありました。
ここが姿見の池か~ 姿見の池と言うのに綺麗な水の池じゃなかったです
小川もありました。
JR中央線の電車が直ぐ脇を通ってます。
その後、路地に出て戻る事に・・・あらここにちゃんとした入口があった
「恋ヶ窪」の由来
鎌倉時代、遊女達が朝な夕なに自らの姿を映して見ていたという伝承がある池です。
この姿見の池にある「一葉松」には悲しい恋の伝承があり、地名「恋ヶ窪」の由来とも言われています。
鎌倉時代の武将・畠山重忠(はたけやまのしげただ)は源頼朝の平氏追討に際し、いち早く頼朝に従い、本拠地のある埼玉と鎌倉の間を往復するようになります。
そしていつしか、この地の遊女・夙妻太夫(あさづまたゆう)と恋に落ちます。
しかし、やがて重忠は頼朝に従い出陣。
その間に太夫に恋をしたもう一人の男が太夫に、重忠が戦死したという偽りの知らせをもたらし、嘆き悲しんだ太夫はこの姿見の池に投身し亡くなります。
彼女の死を哀れんだこの地の人は彼女の墓に1本の松を植えます。
その松は枝に一つしか葉をつけないという不思議なものだったそうです。
一方、何も知らず凱旋した重忠も同じく彼女の死を哀れみ阿弥陀堂を建て霊を祭ったということです。
このようなエピソードからこの地は「恋ヶ窪」と呼ばれるようになります。
ここは、JR西国分寺駅の北口から徒歩10分くらいの所にあります。
姿見の池は、一度埋め立てられたそうですが復元されたそうです。
なーんだ、鎌倉時代からある池じゃないんだ
その後、ここから徒歩で前記事で紹介した恋ヶ窪駅まで行きました。
その途中にあった熊野神社、ここはスルーして
熊野神社の近くにあった恋ヶ窪村分水です。
明暦3(1657)年に国分寺村・恋ヶ窪村、貫井村(今の小金井市)の3つの村が幕府に願い出て開削した玉川上水の分水で、恋ヶ窪村へ水を引いた堀跡です。
恋ヶ窪村分水の前に西武国分寺線が通ってます。
そこから左方向に行くと府中街道に出ました。ここから更に10分程歩いて恋ヶ窪駅へ・・・
姿見の池から恋ヶ窪駅まで散策含めて徒歩で30~40分くらい・・・ぁぁ、疲れた
おしまい